笠間日動美術館の分館である春風萬里荘は、昭和40(1965)年に北鎌倉より移築されました。
この茅葺き入母屋造りの重厚な構えの江戸時中期の民家は、もともとは、現在の神奈川県厚木市近郊の地にあたる高座郡御所見村の豪族で大庄屋でもあった伊東家の母屋であったものを、昭和の初めに北大路魯山人が、北鎌倉・山崎の地にひらいた星岡窯の母屋として、もう一軒の慶雲閣と共に移築し、自らの住居としていたものです。
北大路魯山人は、明治16(1883)年、京都に生まれ、はじめ書家として世に出た後、篆刻、絵画、陶芸、漆工芸などの多方面にその才能を発揮しています。
昭和34(1959)年、76歳で亡くなり、後60余年以上を経た今もさらにその評価は高まっています。
建物の内部は、魯山人が住んでいたままに残されており、「万能の異才」とうたわれ、万事に凝り性であった魯山人の才を偲ばせる箇所が随所に見られます。
昔ながらの三和土の土間の左手にある、本来は馬屋であった洋間には、年輪を刻んだ欅の木目を見せた「木レンガ」を敷きつめた床、自然石そのままを組み上げた暖炉、手斧削りの梁の棚板と古いインド風の擬人化された象の首の棚受、さらに奧には自作の陶製便器「アサガオ」があります。
風呂場は脱衣所を含めると十畳間程の大きさで、魯山人らしく、長州風呂と上り湯と洗い場がゆっくりとした広さの中に配され、周りの陶板はやはり彼自作のもので、半円筒形の織部陶板が青竹のようにめぐらされ、棕櫚縄でしめられた絵付けがなされています。
茶室「夢境庵」は、千宗旦(千利休の孫)によってつくられた裏千家の名茶室「又隠」を手本として、魯山人が設計したものです。
三畳控えの間、四畳半本勝手、洞庫口水屋からなり、床柱は黒柿、長押は南天の樹を用いています。
躙り口際の塗り壁になっている部分に貴人口が設けられ、出入りを容易にしています。
これらの魯山人の手になる部分は、彼の「美的空間で日常坐臥を満たさねば、美しいものを生み出せない」との考えの下になされたものです。
春風萬里荘の展示品として、北大路魯山人作品をはじめ、高橋是清、草野心平、そのほか画家の書、朝倉文夫、北村四海、斉藤素厳、富樫一の彫刻、また岡本秋暉の杉戸絵など日動美術館の所蔵品が展示されています。